「もう限界かも…」
何度も心の中でつぶやきながら、私はずっと離婚に踏み切れずにいました。
でも今、はっきりと言えます。
私はモラハラ夫との離婚を決めました。
この記事では、私がモラハラ夫と出会い、結婚し、暴力と支配の中で葛藤しながら、どうやって離婚という決断に至ったのかを、時系列で具体的に綴っています。
モラハラに悩みながらも、子どものため、自分の未来のために悩み続けているあなたへ。
この記事が、“気づき”と“第一歩”の後押しになればと願っています。
モラハラ夫との出会いから結婚生活
モラハラ加害者は、結婚するまでは普通に「いい人」
私が元夫と出会ったのは33歳のときでした。
私は過去に離婚歴があり、年齢的にも「今度こそ子どもを授かりたい」という気持ちが強く、再婚を視野に入れていた時期。
最初は正直、夫にはまったく惹かれていませんでした。
でも──彼の猛烈なアプローチに、少しずつ心を動かされていったのです。
「私のことを、こんなに真剣に想ってくれる人は他にいないかもしれない」
そう思ったのが間違いの始まりでした。
モラハラ加害者は、「ターゲットを見極める嗅覚」が鋭いといわれます。
そして私は、まんまと“そのターゲット”にされてしまったのです。

不妊治療と共に見えてきた夫の冷酷さ
とにかく早く子どもが欲しかった私は、年齢的にも、結婚後すぐに不妊治療をスタートしました。
夫も結婚歴があり、前妻との間に子どももいたことから、「自分は絶対に不妊はない!」と自信があったようでした。
だから、夫はなかなか協力してくれませんでした。
「そんなに金かける必要ある?」
「子どもは自然でいいんちゃう?」
といって、嫌がるばかりで全く協力してくれません。
「俺には(前妻との間に)子どもがいるんやから、子どもができひんのはお前の問題やろ」
結婚してからは、こういう心ない言葉も平気ではくようになっていました。
今思えば、言葉の暴力は、この頃から始まっていたのかもしれません。
病院から夫の検査を勧められ、権力には弱い夫はようやく検査をうけてくれたのですが、なんと検査の結果、夫側に不妊の原因があったんです。
それでも彼は謝るどころか、病院の診断にケチをつけて、他の病院でセカンドオピニオンを受けましたが、やはり結果は同じ。
もし私に原因があったなら、治療は一方的に拒否されたでしょう。
夫側に原因があっても、結局治療を受けて大変なのは女性だけです。
自分に原因があるにもかかわらず、不妊治療はどこか他人事の夫。
精神的にも身体的にも、そして経済的にもすり減る毎日。
不妊治療が始まり、前妻との子どもに対して不信感を抱いた夫はDNA鑑定をするための調停を申し立て、さらに夫の転勤で、私は仕事を辞めて地元から離れ知り合いもいない県外へ引っ越すことになったんです。
結婚1年ですでに夫に振り回される日々。
この頃は本当に精神的に参っていました。

生まれた子どもを抱えながらの暴力事件
努力の末、念願の妊娠、出産を終えましたが、幸せな日々は続きませんでした。
息子が生後2か月の頃に事件が起きました。
慣れない育児でお互いストレスがピークに達していたんだと思います。
些細な事でキレて激高した夫が、生後2ヶ月の息子を抱いたまま、私に殴る蹴るの暴力をふるったのです。
まだ首も座らない息子はぶるんぶるんと振り回されて、泣き叫びます。
「お願い!子どもは離して!」と、半狂乱になりながら叫ぶ私に対して
「だったら土下座しろ。」
私は子どもの命を守るために、迷わず土下座しました。
すると夫は、「謝ったらなんでも許されると思うなよ」と言いながら、私の頭を足で踏みつけ、さらに顔を蹴り上げられ、そのまま私の財布とスマホを奪って部屋に閉じ込められました。
くやしさと怒りと恐怖──
震える手で小銭を握りしめ、何とか部屋から脱出して、歩いて30分の公衆電話まで行き、実家に電話をかけて、なんとか助けを求め、子どもと一緒に逃げることができたのです。
私の親から連絡をもらった夫の両親も駆けつけてきたのですが、さらに絶望に突き落としたのは義両親でした。このときのことは、こちらの記事に詳しく書いてます。
夫と仲良くするための努力はすべて間違いだった
DVからモラハラ!暴力が終わって始まった“別の地獄”
あの暴力事件のあと、私は子どもを連れて実家に逃げました。
私の中では、夫は「モラハラ」ではなく、ただの「DV夫」だと思ってたんです。
しかし──肝心の夫には、一切反省の色が見えませんでした。
連絡もない。謝罪もない。
あれだけのことをしたのに、まるで「何もなかった」かのような態度でした。
一週間後、ようやく連絡がきたかと思ったら、
「殴られるお前が悪い」
「俺を怒らせることをしたからや」
謝るどころか暴言・・・
絶望しかありませんでした。
しかし・・・
「子どもが父親を知らずに育つのはかわいそう」
「まだ働けないし生活もできない・・・」
まだ小さな子どもを抱え、働けない私には「戻る」以外の選択肢が見つかりませんでした。
父親のいない人生が、子どもにとって不幸だって、当時は思っていたんです。
だから夫の元に戻ることが正しいと信じて、DV更生施設に通うことを条件に、家に戻る話を持ちかけました。
結果は、拒否。
「時間がない」
「仕事がある」
「そんなに言うなら、お前が変われよ」
「おおげさな!」
と、何かと理由をつけて通おうとしません。
しかも、めちゃくちゃ自分勝手な言い分ですよね。
代わりに形だけのカウンセリングを数回受けましたが、文句ばかりですぐに投げ出しました。
それでも、確かに暴力は止みました。
だから、その時は夫が変わってくれた!って思ってしまったんです。
けれど──その代わりに始まったのは、静かでじわじわと心をむしばむ“モラハラ”という新しい地獄でした。

暴言や要求は徐々にエスカレート
戻ってからの夫は、一見穏やかでした。
怒ることも減って、「戻ってきてくれてほんまにうれしい」と、本当に喜んでくれているように見えました。
2人目の不妊治療も成功し、妊娠してからは、家事を手伝ってくれたり、1歳の息子を外に遊びに連れて行ってくれたり、なかなかの良いパパ、いい夫ぶりだったんです。
でも、それは“表面”だけ。
夫は暴力をやめた代わりに、私に対して小さな“チクリ”を刺すようになりました。
例えば、家事のやり方に対する皮肉、言い返せないような遠回しな嫌味や圧力──
「専業主婦って楽でええよな〜、どうせ毎日昼寝してるんやろ?」
「大根太くて食べにくいやろ」
「お前、口の利き方気をつけろよ?俺は我慢してんねんで?」
正直、最初はあまり気にしていませんでした。
なぜなら、暴力のインパクトが強すぎて、言葉なんてまだマシだと感じていたからです。
でもその積み重ねが、じわじわと私の心をむしばんでいきました。
言葉の暴力は、見えない傷を残します。
そしてその傷は、長く、深く、癒えにくく、そして自分でも気づきにくいんです。
徐々に暴言もエスカレート。
「いつも俺が家事やってやってる」
「お前が無能だから俺がやらざるを得ない」
「朝から晩まで働いてる俺に、何させとんねん」
もちろん、実際の家事はほとんど私がひとりでやっていました。
夫は週に一度料理をするかどうか程度。
でも、彼の中では「やってやってる」という認識なんです。
だから、家事に関して少しでも感謝を示さなければ不機嫌に。
機嫌をとって褒めていれば機嫌よくなるが、気を抜くとまた元通り。
私は、地雷原の上を歩くような生活を送っていました。
ほめる・立てるはモラハラ夫には絶対にやっちゃダメ
私も自分が変わらなきゃと思い、よくある「夫婦関係が良くなる本」みたいなものを読みあさっていた頃があります。
だいたいの本には、「男性はほめる、立てるが大事!」なんて書いてますよね。
私も、夫婦仲を良くするために、褒める!立てる!を実践していたこともあります。
でも、私が一番痛感したのは、「褒める」「立てる」という行為がモラハラ夫には逆効果だったということ。
最初は、私の“ほめ言葉”に満足していた夫。
でもそのうち、
「そんな風に言えば、俺がなんでもやると思ってんやろ?」
「お前はほんまに卑怯やな〜」
と、今度は“褒めることすら責められる”ように。
さらに、子どもにかまっていて少しでも褒めるのを忘れたり、言葉が足りなかったりすると、
「感謝の言葉もないんか。やってやってんのに」
「俺みたいにいい旦那、他におらんぞ」
「もっと感謝せーよ」
と、延々と責められました。
私の“仲良くしたい”という気持ちは、モラハラの燃料にしかなっていなかったんです。

在宅ワークが私を支えてくれた
「寄生虫」と言われた日、働くと決めた
夫のモラハラは、言葉の強さや頻度が日を追うごとに増していきました。
家事も育児も、手を抜かず一生懸命やっていたはず。
れなのに、夫の言葉は、
「俺が稼いでるから、お前は飯食えてんねん」
「タダ飯食いが偉そうに言うなよ」
それもだんだんエスカレートしていき、
「お前は俺の稼ぎに寄生する寄生虫やな」
──寄生虫。
その言葉は私の胸をキリキリとえぐっていきました。
それまで、「誰のおかげで〜」と言われても、どこかで「事実だし仕方ない」と受け入れてきていました。
でも、“虫”って。
もう人間扱いですらない。
当時の私は完全にモラハラ夫に支配されていたため、「おかしい!」と気づくより、
「働けば人として認めてもらえる」
「働かなければ価値がない」
と、考えるようになりました。

深夜に泣きながら仕事をする日々
この頃は、「仕事をしよう!」と決めても、家を出る、ましてや離婚するなんてたいそうなことまでは考えていませんでした。
2人目の子どもが生まれたばかりで、保育園も見つからず、上の子は来年から幼稚園が決まったばかりで、外で働くのは難しい状況。
「だったら、家でできる仕事をしよう」
そう決めて、私は在宅でできる仕事を調べ、webライターという道を選びました。
初めてのライティング、初めてのクラウドソーシング。
夜、子どもたちを寝かしつけたあとに、パソコンを開く毎日。
授乳しながら調べ物をして、夜泣きの娘をおんぶであやしながら文章を打って──
気づけば、深夜3時4時まで作業をすることも珍しくありませんでした。
身体はつらい。
でも、自分で稼げるようになりたい。稼げるようになればもう文句を言われないはず。
その一心で、泣きながら、キーボードを叩いていました。

仕事をバカにされた悔しさと“気づき”
やがて、少しずつ仕事にも慣れ、月に数千円~4万円ほど収入を得られるようになっていきました。
私にとっては、希望の光でした。
けれど、夫の態度はますます冷たくひどくなる一方。
「お前の仕事なんか、ゴミみたいなもんやん」
「俺がいるからお前は働けてんねん」
「そんなもん、仕事って言わんのや」
「で、いくら稼いだん?俺の月給の足元にも及ばんやろ?」
──これまで、どんなに人格を否定されても「私にも悪いところがあるんやし」と思っていました。
でも、“自分の努力”をバカにされたことだけは許せなかった。
家事も育児も一人で担いながら、寝る間を削って積み上げた仕事。
それを「ゴミ」と切り捨てる人間に、これ以上なにも奪われたくないと、心から思った瞬間でした。
そして、ようやく私は気づいたんです。
専業主婦で家事育児をがんばってもダメ。
家事育児をやりながら働いてもダメ。
笑っても、黙っても、ダメ。
つまり「何をやっても夫が私を受け入れることはない。」
そのとき、私はやっと心から「離婚」という選択を考え始めました。

別居でもいいと思ったこともあった・・・でも
単身赴任のような関係が心地いいと感じたことも
離婚を考えても、すぐには行動はできませんでしたが、夫は何か気に入らないことがあると、すぐに「出ていけ」という人。
限界が来ていた私は、「だったらもう出ていこう」と決めたんです。
もちろん話し合いはしようとしましたが、この頃には「何を言っても無駄」と、ようやく気付き始めていたころだったので、一方的に「出ていくならさっさと出ていけ」とわめく夫と、まともに話し合うための努力はそこまでしませんでした。
私は子ども達と実家に戻り、夫は県外で生活。
自然と「単身赴任」のような距離感になりました。
すぐに離婚したいと思っていましたが、環境が変わったことで上の子が情緒不安定になったことで、しばらくは別居で様子をみることにしました。
夫は月に2〜3回、子ども達に会いに来ていて、実家に泊まることもあれば、長期休みには旅行にも行きました。
家族らしい“イベント”だけをピンポイントで共有する関係。
そして、気づいたんです。
「毎日顔を合わせないだけで、こんなに心が楽なんだ」
ケンカになることもない。
暴言もない。
「今日も何を言われるだろう」と怯えることもない。
そんな生活を1年間続けてみて、「これでいいのかもしれない」と思いかけた自分もいました。

1年後、私は“自立”を選んだ
在宅ライターの仕事も、少しずつ軌道に乗ってきていました。
この頃にはクライアント様と直接契約をして、月に数万円を安定して稼げるようになり、私は決めました。
「もう実家には頼らず、自分で自分の人生を歩こう」
私は小さなアパートを借り、子どもたちと3人だけの生活を始めました。
そこは誰の支配もない。自由でした。
自分の力で稼ぎ、自分の意思で選び、自分のペースで生きる日々。
そして、夫はたまに会えば、いい父親として子ども達と接してくれて、これも新しい家族の形なのかもしれない。
穏やかな毎日が、このまま過ぎていけばいい・・・そう思っていました。
でも──
離婚を決めた最後のきっかけ
「お父さんは怒ってる人」息子が描いた絵
長期休みの後、夫とたくさん遊んだ息子がクレヨンで絵を描いていました。
それが、眉間にしわを寄せ、頭に青筋がたってどう見ても“怒っている人”?
私は思わず、「これ誰?」と聞きました。
すると息子は、にこっと笑ってこう言いました。
「これ、おこってるお父さんの顔やねん!」
──絶句しました。
長期休みにはたっぷり夫と過ごしましたが、基本的に夫と息子は月に数回しか会っていません。
けれど、そのわずかな時間の中で、息子の中にある父親の印象は“怒っている人”だったんです。
「子どものために」と信じて交流を続けてきたのに、それが本当に子どもにとって“幸せ”なことだったのか、私はわからなくなりました。

子どもに嘘を強要した夫を許せなかった
私は、子どもの幸せのために──そう信じて、夫とは離婚もせず、夫との交流も許していたんです。
しかし、ある年末。
夫は「正月、うちの実家には帰らんよな?」と、私に確認してきました。
私は「別居してることをあなたの両親に説明していないなら、行かないよ」と答えました。
夫は、別居から1年半も経っているのに、義両親にはまだ別居のことは話していなかったんです。
夫はあっさり理解したように見せかけて、その年の正月を迎えたのですが──
冬休みが終わり、自宅に戻ったある日、下の娘がこう言ったんです。
「キャンプに行く前に、おじいちゃんとおばあちゃんの家に行ったのー!」
……え?
すぐさま兄の息子が言葉をかぶせました。
「それはお母さんに言ったらあかんってお父さんに言われてたやろ!」
その瞬間、背筋が凍りました。
私を騙して、子ども達に嘘をつかせて、夫は自分の実家に帰っていた。
しかもその理由は、自分の両親に「別居している」と知られたくなかったから。
たったそれだけの理由で、まだ小さな子どもに嘘を教えたんです。
さらに、正月に夫の実家に行けば毎年親戚中からお年玉をもらいますが、それも夫が盗んだようでした。
子どもがもらったお金を平気で盗む神経!
私は子ども達が義実家に行ったことを知らないので、義実家では「お礼の連絡もない非常識な嫁」と言われていることでしょう。
この人は、自分のプライドや体裁を守るためなら、平気で子どもを利用する。
平気で人を蹴落とす。
その事実が、心底許せませんでした。
この翌週には、家庭裁判所に行き、離婚調停の申し立てをしたのです。

2歳の娘が言った「どうしてケンカしてるの?」
その夜、2歳の娘がなかなか眠れず、私の腕の中でぽつりと言いました。
「おかあさん、どうしておとうさんとケンカしてるの?」
心臓を握られたような気がしました。
子ども達の前では、ケンカしているように見せない努力をしてきたつもりでした。
でも、伝わっていたんです。
子どもは、全部わかっていたんです。
私は娘に向き合って、静かに話しました。
「お父さんとお母さんは、仲良くしようと頑張ったけど、どうしてもできなかったの」
「でも、あなたのことはふたりとも大好きだよ」
娘は悲しそうな顔をしながら、うなずいてくれました。
その小さな目が、私の心を揺さぶりました。

離婚は失敗じゃない!自分と子どもを守る“選択”だった
自分と子どもを守る“選択”が離婚だった
これまで、私は何度も「子どものために」と思って我慢してきました。
暴言、暴力、モラハラ──
ひとつひとつを「母親だから」「家庭を壊したくないから」と飲み込んできました。
でも、ある日気づいたんです。
「子どものために我慢する」ことが、本当に子どもの幸せにつながるとは限らないということ。
私が笑えない日々。
私が傷つきながらも黙って耐えていた日々。
それを、子どもたちは全部、感じ取っていたんですよね。
別居を選んだときも、離婚を決めたときも、私は揺れていました。
「子どもにとって本当にこれがいいのか」
「この決断が、後悔につながるんじゃないか」
でも今、ようやくはっきり言えます。
離婚は、“失敗”なんかじゃない。
自分と子どもを守る“選択”だったんです。

離婚は新しい人生のはじまり
離婚は、失敗ではなく、「新しい人生のはじまり」だと思います。
もちろん、子どもにとって父親は唯一無二の存在です。
どれだけひどいことをされても、「大好きなお父さん」であることに変わりはありません。
それでも私は、子ども達に伝えたい。
「あなたたちには、自分を大切にしてくれる人と一緒に生きてほしい」
「理不尽な支配を受けても、それを“愛”と勘違いしないでほしい」
そういう未来のために、私は離婚という選択をしました。

離婚するにあたって私が決めたこと
離婚するにあたって、私が決めたことはただひとつ。
「かわいそう」な子どもには、絶対にしない。
たしかに、父親がいないことで、寂しい思いをすることはあるでしょう。
でも私は、子どもたちを“かわいそう”な存在には絶対にしないと決めています。
私の仕事は、子どもたちの笑顔を守ること。
そして私自身も、ニコニコしていられるように努力すること。
「お父さんに会えなくて寂しい」──
そう言う日があってもいい。
でもそのあとで、こう言ってもらえるように。
「でも、お母さんと一緒にいるほうが、ずっと幸せ」
その言葉を目指して、私はこれからも歩いていきます。
まとめ
長い長い私の話に、最後まで目を通してくださって本当にありがとうございました。
もし、今この記事を読んでいるあなたが、
かつての私のように悩んでいたり、不安でいっぱいだったりするのなら──
「自分の人生は、自分で決めていい」
そのことだけは、忘れないでくださいね。
そして、あなたとあなたのお子さんが、
穏やかで安心できる日々を取り戻せますように。
心から、願っています。
